越後三条職人列傳
忌鍛冶の和釘(4)
岩淵 一也

 生産開始から最終納品まで1年足らず、5万本という数だから苦労があったはずなのに、昭吾はこともなげである。「今までやってることをやったまでだから」そうしか応えてくれないから書き様がないのだ。
 納品が終わった平成3年の秋、伊勢神宮からの招待で遷宮工事見学の栄に浴した。玉砂利を踏んで間近に社殿を拝謁し、自分の作った階折や蛭頭釘が板塀などに使われているのを感激の面持ちで眺めた。その折に戴いた鰹木製の表札は今も昭吾の宝である。
 同じ秋、昭吾は息子と二人、工場の一角を借りて独立した。神宮の仕事に区切りがついたのと世間の60歳定年に倣ったのである。けじめをつけたいという気持ちだった。
 独立したとはいえ今まで通り火床に向い、今までと同じ仕事をこなす。自分の名前で注文を貰い自分の名前で品物を納める、違いといえばそれだけだ。
その後3年ほどは実家を借りて仕事を続け、柳川へ移ったのは平成9年である。その間、伊勢神宮から階折釘3万本の追加注文があり、それを納めている。
 神宮の仕事をこなした忌鍛冶には、その実績を伝え聞いた注文も多い。
平成12年には「卓越した技能の持ち主」ということで県知事表彰を受け、14年には「多年にわたる和釘の製造に専念」したことが評価されて市長表彰を受けている。
 金物雑貨は名前にめげず健在だ。なにより頼もしい跡取りがいる。名前に「火造り」を冠した内山は、息子の新しい感覚で動き出している。
 名刺の裏にあった俳人静尚についても触れなけれぱならない。
そもそも昭吾が俳句に興味を持つようになったのは、亡くなった兄の影響が大きい。兄は10人ほどの仲間を集め、実家の2階で月1回丸山太朗子先生の手ほどきを受けていた。そこで俳句の魅力にとり憑かれる。世の中にこんなに面白いのがあったのか、と思ったものだった。17文字の中に詠み込んでゆく言葉の妙、風景や生活の短截がなんとも心地よかった。
 兄が亡くなってから11年のブランクがあり、作句活動を再開したのが40歳の年、現在は『ふもと』の同人を続けながら、図書館の文学サロンで俳句の指導にあたっている。
もともと三条は俳句の盛んな土地柄である。今だって三条俳句作家連盟には5グループ、65人が参加している。
 晩秋の午後、図書館の俳句教室を覗いた。出席しているのは15、6人。内山さんこと静尚は黒板を背に、いつもの柔和な顔で講評にあたっていた。
私は現代詩を齧ったこがあるが、詩の合評会は甲論乙駁、喧々諤々が常だが、俳句はそれぞれが楽しんでいる風に見える。私もそれに味方したい年齢になってきた。
 講談社の大歳時記に静尚の句が載っている。
「蜩に杉の樹齢を聞いてみよ」自信の句であろう。今年の賀状には「七十路の雪の峠を一里ほど」と書いた。来年は「歳旦へ晩齢馬齢重ねつつ」と書くつもりだ。
 さて、最後の質問になってしまった。
「内山さんにとって職人とはなんですか」暫く沈黙があった。といって長い時間ではない。丸い顔をあげてきっぱりとした声だった。
「自分の品物に責任を持ち、使う人が喜んでくれる品物を作る人」
「それに無名の方がいいなあ。品物は残っているけど、誰が作ったかわからないといったような・・・」そう付け加えた。句集を持たないということもその考えに拠るのだろう。
 歳旦へ晩齢馬齢重ねつつ、か。私は呟きながら工場を後にした。
暖冬の予想とはいえ、風はさすがに冷たさを帯びていた。


(背景題字・瀧沢晨霜)
(写真・捧 忠昭)

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