越後三条職人列傳
忌鍛冶の和釘(2)
岩淵 一也

 胃潰瘍で入院した昭和46年は、ベトナム戦争が泥沼化の様相を呈していた。土地成金が横行し、横綱大鵬が引退した年でもある。
 世間の好況を横目に、内山吾三郎工場の仕事は減ってきていた。建築様式の変化等で荒物雑貨の需要が減り、競合も重なってピンチに立たされていた。
小さい工場とはいえ責任者である。従業員のことはもちろん、何より家族を養っていかなければならない。なんとかコストを下げて注文を増やせないか、型を工夫して生産性を上げられないか。そういう焦りが昭吾を酒に向わせ、胃潰瘍に繋がっていったのだろう。
 ある日、金型を持った甥が病院へ見舞いに来た。入院前に思いついた金型の構想が具体的な形になったのだ。昭吾は自分の不甲斐なさを恥じた。ここからなんとしても這い上がらなければ、型を見ながらそう心に誓ったのだ。45日間の入院は決して無駄ではなかった。
 その後も平坦とばかりはいえない。日本経済の浮沈に弄ばれながら第一次石油ショック、第二次石油ショックの不況を乗り越えてきた。
 第一次石油ショックのあった昭和48年、内山吾三郎工場が有限会社になると専務に就任した。組織の上でも甥の社長を助ける体制が整ったのである。
 試練があれば報われることもある。東京にいた息子が三条に帰って昭吾と一緒に鎚を振るようになったのだ。息子の立哉は、鎌倉の古いお寺の修復現場で和釘に出会い、父の仕事を見直していた。
 伊勢神宮から三条へ和釘作りの打診があったのは、年号が平成に変った年である。
 伊勢神宮では20年に1回、殿舎を全て新しく建て直す遷宮を行う。内宮も外宮も 茅葺掘立の神明造り、これを造り直すのである。掘立は土を掘ってそこに直接柱を建てる工法である。法隆寺のように千数百年も持つ木造建築もあるというのに、20年とは誰しもが疑問を抱くのではないか。理由のひとつは、神に清浄な場所を提供する神道思想の投影であり、ひとつは簡素で荘厳な茅葺造りの様式を守ってゆく、先例尊重の表われといわれている。
 式年遷宮は持統天皇の御代に制度化されたと考えられ、千三百年の歴史を数える。三条に和釘の依頼があった平成5年の遷宮は、61回目に当たる。
 前記したように遷宮の和釘は、それまで伊勢市で作る和船に用いられた釘が使われていたが、和船の衰退によって伊勢では調達が難しくなったものである。
 三条の和釘作りは江戸時代に遡る。農民を貧窮から救うために奨励されたらしく、これが三条の金物の始まりになる。
 しかし、明治に入って洋釘が使われるようになる。鉄線を素材に、頭の丸い洋釘は大量生産の理に適い、価格も太刀打ち出来ないほど安い。和釘は急速に廃れてゆく。今、和釘を作るのは全国でも2、3軒になってしまった。
 和釘作りが発祥とはいえ、天照大神、豊受大神を祀る殿舎である。
三条では伊勢神宮から要請のあった平成元年7月に「伊勢神宮御遷宮金具製作委員会」を設置し、産地ぐるみで対応を図ることになった。和釘だけでなく軒付金具や庇釣金具など、注文は多岐にわたる。大きな御鍵も作ることになる。和釘を担当することになったのが、小由製作所と内山吾三郎工場だった。
 現物見本と図面を頼りに製作が始まったのがその年の暮れ。形状も寸法も始めての品物が多い。火造り用の挟み箸や冶具、金型も新しく作らなければならない。むろん寸法精度や強度も要求される。
 釘も多種類にわたっている。階折釘、巻頭釘、平頭釘、丸頭釘、蛭頭釘などである。
しかもそれぞれ寸法の別がある。

(背景題字・瀧沢晨霜)
(写真・捧 忠昭)

⇒ (1)に戻る ⇒ (3)へ ⇒ バックナンバー ⇒ トップページに戻る