越後三条職人列傳
忌鍛冶の和釘(1)
岩淵 一也

 お盆過ぎ、幾日か夏は戻ったが、梅雨の気候が続いている。いや、もう秋雨といっていいだろう。
「火造りのうちやま」を訪れたのは、そんな空模様の1日、柳川の排水機場は知っていたが、工住団地は初めてだった。職住接近を形にしたこぢんまりとした団地である。
 金床に向っている人に見覚えがあった。どこかでお目にかかった筈なのに、にわかには思い出せない。手渡された名刺には「忌鍛冶内山昭吾」とある。伊勢神宮の和釘作りで呼び称されて以来という。
 「忌」は忌中、忌引き、忌嫌うなど、不吉なこと厭なことに使われるから、忌鍛冶の意味を確かめるにはためらいがあった。
ところが神宮では神聖なことに忌が用いられる。神が用いる神事専用で、一般の常用が厳禁されているものに冠するのだ。忌種、忌箸、忌刀、忌柱といったように。 
 だから、忌鍛冶は神のための用具を造る神聖な火造りを指す。
 名刺の裏には静尚の号が刷り込まれていた。その俳号で思い出した。俳句教室の講師も務める内山静尚さんである。
工場の一角を仕切った事務室にさりげなく短冊が掲げてあった。
「樹にいくど命ふき込む法師蝉」
その蝉の鳴き声を耳にしたのも短かかった。夏はことわりなく過ぎたようだ。

 昭吾という名が示すとおり、内山さんは昭和5年12月生まれの72歳、まだ現役のバリバリである。伊勢神宮の和釘のことも、俳句のことも後にして、暫くは履歴を振り返ってもらうことにしよう。
 昭吾は生まれも育ちも荒町で、男5人女3人、8人兄弟の三男だった。生まれた年の昭和5年は、ロンドン軍縮会議が開かれ、浜口首相が凶弾に倒れた不穏な年である。5月には詩人生田春月が船から身を投げている。
 父の興した内山吾三郎工場は、刃物以外の荒物雑貨を作っていた。プレス製品が加わるのは戦後になってからである。
荒物雑貨は、火打ち、かすがい、釘、などの建築金具から施錠用の掛け金、ごとく、などをいう。
 昭吾は高等科2年を卒える前から、加藤鍛工や新潟鍛工で働いた覚えがある。その後野水工業に移り、卒業後もそのまま野水工業に勤め続けた。
 野水工業では旋盤の補助的な作業だった。そこに2年ほどいて、実家の仕事を手伝い始めたのは17歳の年である。
 22歳で恋愛、多感な青年は青年団の集まりで俳句と出逢うことになる。
先に触れたようにこのあと俳句は、次第に昭吾の中で大きな位置を占めてゆく。 
 仕事について父から手をとって、あるいは口で教えてもらったことはない。最初は見よう見真似からスタートし、次第に自分なりの工夫が加わってくる。この頃は働き盛りといっていい。兄に負けたくないという意地もあって、結婚までは日曜、休日も半日は仕事をすると心に決めていた。
 27歳で結婚し分家する。朝早くから工場に通い、7時に夕飯を摂ると9時まで仕事を続ける。いま考えると、よく体がもったものだと驚くほどだった。あの頃、工場では11人が働いており、忙しく賑やかな時代だった。朝から晩まで槌音が絶えることはなかった。
 29歳の時に兄が亡くなった。肺結核と診断されたが実際はガンだった。35歳の短い生涯だった。亡くなる前、兄から独立させるという話があったが、甥がまだ5歳では、実を結ぶはずもなかった。
 以来、甥の社長を助けて平成8年まで実家の工場で働いてきた。その間材料値上がりの憂き目に遭い、注文がなくて思い患う一時期もあった。41歳の時は、胃潰瘍で入院する始末である。

(背景題字・瀧沢晨霜)
(写真・捧 忠昭)

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