越後三条職人列傳
竹風盛上駒
(1)

岩淵 一也

 花見の好機と踏んでいた週末が雨、今年もゆくりなくとはいかなかった。
さっきも、桜吹雪に見舞われて花びらを纏った自動車とすれ違い、贅の無残さにしばし見惚れたほどだった。そんな雨の夜の訪ないである。
 大竹碁盤店の、名前も知り場所もわかっていたが、店へ入るのは初めてだった。削り直しを待つ碁盤が積まれ、駒やら碁石の並ぶ飾り棚に気付くのは、帰り間際のことになる。
 店と呼ぶには素っ気ない3坪ほどの三和土、そこを上がって畳の部屋で向かいあった。声の感じからするともっと謹厳な堅物を想像していたのに、大竹日出男こと二代目竹風は、意外に柔らかな物腰だった。とはいえ初対面に、いきなり出自を尋ねようというのだから、いささか勇気のいる所業である。
 くどくど言い訳がましく聞き書きのことを説明するのへ、いきなり核心に触れる話になった。
「県内で駒を彫っているのはうちだけです」
なんで?とは尋ねさせずに竹風は続ける。
「祖父が東京で櫛を作ってまして」
 生まれは三条だが本所横川橋に移り住んで、櫛職人で生計をたてていた。日本髪がまだ廃れていなかった時代のことである。
 日本髪を梳かすに黄楊の櫛は欠かせない。将棋の駒も上物は黄楊で作る。しかも櫛の歯先の勾配と、将棋の駒のそれは同じである。そんな関係から駒木地を頼まれるようになり、木地が出来ると届けるのが、日出男の父治五郎少年の役目になった。届ける先は松尾さんという駒彫りの職人で、この人は東京で二大駒師と呼ばれた奥野一香の下職をしていた。小さな版木刀で彫り込まれる松尾さんの駒文字は、少年の心を魅きつけてやまなかったという。
 たいていの少年なら、手職を飽かずに眺めた経験をお持ちだろう。なんの変哲ない手と道具から繰り出される品物は、手品のように魅惑的である。まして、自分の父の作った木地に彫り込んでゆくのである。
 治五郎少年が見よう見真似で駒作りを始めたといっても驚くにはあたらない。昔は親の仕事を子供が継ぐのは当たり前だったし、櫛の需要が次第に少なくなっていくであろうことは、なんとなく感じ取っていたのだろう。
 日出男が生まれたのは昭和19年1月。真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争の、緒戦の勝利もあらばこそ、ミッドウェー海戦、アッツ島、サイパンと、敗退・全滅の泥沼に日本がもがき始めた頃だった。
 日出男が1歳になった年の3月10日、低空で侵入した約320機のB29が東京の下町を襲った。いわゆる東京大空襲である。下谷、浅草、本所、神田などの一帯は猛火に包まれた。死者、行方不明者8万9千人、消失家屋27万戸。運河を橋上を空地を、死者が累々と連なったという。
 むろん本所に住んでいた大竹一家も焼け出され逃げ惑う。乳飲み子を抱え逃げおおせたのは、防空壕に入らず猛火を突っ切るという父の果敢な行動に従ったからだという。着のみ着のままで疎開したのが、祖父の生まれ故郷三条だった。
 三条にたった1軒の駒作りは、こうして生まれたのである。

 門前の小僧は日出男の場合にもあてはまる。親の後を継ぐことに何の疑問も持たず、見よう見まねで14の歳から駒を彫り始めていた。駒作りは、14歳の少年を魅了するに十分な力を持っていた。先代は、落ちたら奉公に出す積もりで高校を受験させたが、その高校に受かってしまった。
もとより駒屋を継ぐつもりだから卒業しても就職の心配はない。
(背景題字:瀧沢晨霜)

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